ベルツノガエルを数ヶ月前に買ってきた。
最初はアマガエルくらいの大きさだったのに、あっという間にトノサマガエルくらいのおおきさになってしまった。
南アメリカの中でも南の方だ。
そんなところから、俺のベルちゃんのお母さんのお母さんのお母さんくらいが連れてこられたのだろう。
俺のベルちゃんは、日本で生まれたのできっとゲージの中で生まれた。
そして今もゲージの中で暮らしているから、ゲージがベルちゃんの全世界であるはずだ。
あまり動かないカエルなので、小さいゲージで十分らしい。
俺はそこそこの大きさで飼っているが、まれにゲージにぶつかっている。
以前にプードルも飼っていたが、原産国はフランスらしい。
何代も前にヨーロッパから日本に連れてこられて日本で繁殖され続けているんだろう。
タイやら韓国でもプードルを売られているところは何度も見たが、売り方が全然違う。
タイは、露天のようなところで触り放題で売られているのをよく目にした。
韓国は外からでも見えるようなゲージに入れられてることが多かった。
ま、俺が見た範囲であるが。
何が言いたいかというと、プードルはフランスの犬かもしれないが、もはや世界中で生きている。
日本のプードルをフランスに連れて行っても「ここはどこ?」になるだろう。
俺のベルちゃんもアルゼンチンの森に返したら、家で飼うよりは短命になってしまうだろう。
俺のベルちゃんは生まれた時から、日本のゲージ。
アルゼンチンの森のベルツノガエルは、生まれた時からアルゼンチンの森。
なんでなの?
どっちがいいのかわからないけど不公平じゃないの?
外にいる野良猫の寿命は4年くらいと言われている。
家で飼ったら10年は生きるだろう。
どっちがいいか、もちろんわからない。
きっとこういう不公平感は人間の世界でも起きているはずだ。
というか、全ての人が完全な不公平になっているはずだ。
お金のこと、健康のこと、性格のこと....
色々なことが、一人一人の差となりその掛け算になって、誰一人同じ人はいなくなる。
昔は、「俺すごいだろう。」っていばるのが大好きだったが、最近はなんかそういう気持ちが減ってきている。
たまたま今、幸せに生きさせてもらえてるのは運の力が大半だったはずなのに、困っている人や弱ってる人もいる不特定多数の人々に「どうだ。俺ってさすがだろう?」ってなるのは違ってたのかなって思っている。
偉そうにしてきてごめんね。
これからも調子に乗って偉そうにしてしまうかもしれないが、だけど歳と共にこうべを垂れることができる人間に自然になってゆきたいと思っている。
若いうちは、ちょっとくらい頭がおかしいくらいの方がビジネスはうまくいくと思うが、それをいつまでも続けていくのは、美しくないと思うようになった。
プードルはたまたまプードルに生まれたから、人から可愛がってもらえてエサももらえるかもしれない。
だけど、どこかのスラム街で生まれた名もなき犬だって、与えられた自分の世界でがんばっている。
運っていう言葉よりも確率という言葉の方がしっくり来るかもしれないが、自分に与えられた確率の中でできるだけ「ありがとう」と思いながら生きていきたいなって思うようになった。