自分が明らかに歳をとってきたと思う。
映画で言うと、もう主人公ではなく主人公のお父さん(つまりは脇役)になってしまったと思う。
若いときは、自分が一番すごいと思ってたし、「俺ってすごいだろう。」「さすが俺。」という発言が多かった。
もちろん、今でも多い方なのだが、若い時の方が明らかにそう思っていたと思う。
なんでもできる気がしていた。
それはそれで、歳によって魅せるものは違うから問題ない。
いつまでも「俺ってすごいだろう。」ってやり続けたときに、葬式のときに言われる言葉は、「いつまでも子供のような人でした。」「自由奔放に生きた人でした。」になるだろう。
それを否定しないし、そういうのに憧れる人だっているだろう。
だけど、俺はそういう生き方をしたいとは1ミクロンも思ってはいない。
「子供のような人でした。」「自由な人でした。」
こういうのは若いからいいのであって、歳をとって言われるのはベストではないように感じている。
なぜなら、周りの人に合わせてもらってるからだ。
歳をとっていろいろな知識や経験があるはずなのに、まだ周りの人に合わせて欲しいとは思わない。
「すごいですね。」と言われたいんじゃない。
むしろ、今まで蓄えてきた経験値を持って、「すごいね。」って言ってあげられるような存在になりたい。
経験値の高くなった俺が、今度は他人に合わせてあげたい。
今までのお返しをさせて欲しいと思う。
自分が培ってきたり、蓄えたものがあるのであれば、それを若い人(主人公)に使って欲しいし、その際に自分は目立たなくてもいいと思っている。
人生はたかだか80年くらいのことで、この間にできることは限られている。
大発見や大発明をしない人の人生はただの路傍の石かもしれない。
だけど、地球には路傍の石の方が圧倒的に多くて、路傍の石だって生きている。
ブランドで固めて歩いたところで、それって幸せか?
お金持ちだったら楽しいのか?
そろそろ人生で自分が何をしたか、あるいは何をするかを考えてもいいような気がしている。
俺の人生は一言で言うと「接着剤」かな。
学もない貧乏な家に生まれた一人の子供が、勉強することを学んで、そして仲間を集めることを学んで、そしてみんなを幸せにする(←今ここ、もしくは今からここ)。
ベッドで、〇〇は楽しそうだったな。とか、〇〇は幸せになったなとか、そういうことを考えながら息を引き取りたいと思っている。
たまたま俺が生まれてきて、俺は俺の周りの人たちと知り合えて、俺の微力で少しでもまわりの人が幸せになったとすれば、それが俺の最幸なのではないかと思うようになった。
あんなに傲慢だった俺も、歳をとってくると変わってくるんだね。
体だけじゃなく、心まで変わっていくのだから、人生ってすごいなとやっぱり思うのであった。