いろいろなものを手に入れたくて、塾を始めた。
少ししてブログも書き始めた。
ブログを書いて20年くらいになるか、最初の頃はなんでもかんでも「イエーイ!」でよかった。
だって、すぐにうまくいったんだもの〜。
1ヶ月くらいしか苦労してないんだもの〜。
あっという間に目標の白いベンツが買えたんだもの〜。
一瞬で幸せになった俺は、その生活に慣れ始めるのである。
豊かな生活に慣れ始めてから、「幸せとはなんなのか?」を自分に問い始めた。
なんとしても貧乏から脱出したかったはずのに、今度は幸せがわからなくなった。
もちろん、毎日が楽しい。
だけど、方向性がわからなくなった。
何を目指せばいいのか?
何になりたいのかわからなくなってしまった。
幸せの本質を知りたくて幸せの本を読むようになった。
いろいろわかったね。
じわーっとわかったね。
この歳になって。
俺が思う幸せとは.....
まずひとつ、若いうちに幸せをわかることは難しい。
それでも幸せを知りたければ、誰から習った方が早い。
幸せがわかってる人の気持ちになり切って、その人が捉えている幸せを理解した方がいい。
その人の幸せがわかっても、100%自分と同じにはならないが(後述)
もうひとつ
幸せはお金ではない。
お金で買えているものは幸せではない。
お金で買えるものは、満足である。
最後、幸せは人によって同じではない。
だが、おそらく幸せだと感じている多幸感のような感覚は近いと思う。
俺が幸せのことを考え続けて、行き着いた俺の思う幸せは「幸せとは結局人である。人との関わりである。」ということだ。
若いうちは、お金持ちになりたいいう気持ちが強かった。
だけど今は、お金持ちを目指してはいない。
でも、幸せを目指している。
なぜなら、俺が幸せになるために俺独自の計算様式(わかりやすく言うと幸せ通貨)を見つけたからだ。
俺の通貨は俺だけのレートなので、人からみると価値がずれているかもしれない。
だけどずれていても何の問題もない。
もはや俺のレートは揺るぎないからである。
他人に良いものでも、俺に無価値なら興味がない。
例えば、俺はしょうた先生と一緒に飲むことが多い。
俺はここには価値があると考えている。
仮に、しょうた先生の飲み代を俺が全部出すことがあったとしても、俺には飲み代以上の幸せがある。
俺がしょうた先生と飲むことは、俺のお金を減らしているわけではなく、俺の幸せを増やしていることなのだ。
すべてのものには値段がついているが、俺のなかにも俺のレートの値段がついている。
だから俺は幸せを増やし続けている。
お金を狙ってがんばったり、名誉をねらってがんばることも確かにいい。
だけど、俺は俺の数式に従って、幸せに近づいている。
だれからも理解されないはずだ。
だって人によって考え方が違うのだ。
だけど、俺は揺るぎない自分の信念をみつけてしまった。
もうこれで、一生幸せであることが確定してしまった。
俺から幸せを学びたいやつは、俺と何度も飲んでみると伝わると思う。
「幸せとは何なのか?」が。
生徒の場合は、旅行についてきたらわかるだろう。
そのときはできるだけ、少人数でついてくることだ。
大人数だと「子供同士の旅行」になってしまうから。
さて、授業まで部屋を片付けようと思う。
俺が幸せを実現しやすい配置にしよう。