最近、文字を1日4500文字ずつ書いているので、書くことについていろいろなことを考えている。
俺は時間短縮でできるだけ板書を書いたものを配るようにしていたのだが、板書を写すという行為は意外に重要なのではないかと言う気がしてきたのである。
文字を書くときのことを詳しく考えてもらいたい。
まず、板書を見る。
そしてそれを覚えておいてから、書いているのである。
例えば、「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」これを写すとしようか。
この文章を一回読んだあと、どこかの長短期記憶の部屋に、この文書を記憶するのだ。
で、これを紙に書くと。
つまり、紙に書くという行為には、記憶が必ず伴っていると思うのだ。
記憶しなければ文字を書くことはできない、ということに気付いてしまったのだった。
さらにさらに、最近すごいツイートを発見してしまった。
吉川真人さんという中国の深センに住んでいる人の投稿だ。
『学歴は高ければ高いほどよい、と中国にいると思わざるを得ない。優秀な人の周りには優秀な人が集まり、成功に対する蓋然性が高いが故にそこにはヒト・モノ・カネ情報が参り込む。その点日本は学歴無関係論がまかり通るから恵まれている。でも蓋然性の視点が欠如した試論がされがちよね。おはようさん』
確かに。
いい高校に行くのはなんのためか?というブログを昔書いたことがあるが、いい友達に巡り合うためなのである。
いい友達に囲まれる方が、環境がよくなるに決まっている。
「俺さあ、夏休みにシンガポールに留学するんだよね。」とか「お年玉で、株を始めたみたんだ。」という友達といるのと、
「この前学校休んだ日にパチンコ行ってね。」とか「朝からやることないからずっと寝てたわ。」みたいな友達といるのでは、刺激が全然違ってくるだろう。
後者のような学校だったら、何かに対する感度も磨かれずに時間だけが経過していくよね。
塾も同じ。
ただ、授業をするだけの先生と、「ノートに書いたら賢くなるんじゃないかと思うんだ。」と言う先生がいる塾では環境が違いすぎる。
というわけで、新年度の生徒をもうすぐ募集します。
今年も一発で満席になるのではないかと思うので、早めの検討をよろしくお願いします。