当たり前だと思ってて、実は当たり前じゃないことって世の中に多く存在してるだろ?
例えばブランドのカバン持ってるとするだろ?
実際よくよく考えたらそれって本当に羨ましいか?
どうしてブランドが羨ましいのか誰かに洗脳されていないか?
ブランドがいいと刷り込まれていないか?
タワマンに住みたいとするだろ?
おいおい。
本当にタワマンっていいか?
エレベーターで上まで上がるのに時間かかるぞ?
スマホの電波だって弱いかもしれないぞ?
空気の組成だって地上と違うかもしれないし。
他にもいっぱいある。
英語って本当にできる必要あるのか?
まあ、それ言い出したら化学なんか生きるのに必要な知識と言えるか?
化学が入試科目ってどうして?
そういう風に誰かに常識作られて、その常識に乗っかってしまってることがあることがいっぱいあると思う。
サッカーを上手になろうと努力するのはいいのだが、そのルールを誰が作ったのかが問題だってことだ。
ゴールに入れたら勝ちじゃなくて、ゴールから出さないようにしてもいいんじゃない?
ボールも一つじゃなくて10個くらいあって、ゴールしたら将棋のように相手のボールを奪えるってるーるでもいいんじゃない?
本題に入ろう。
最近は日本って貧乏ブームだから、お金がかからない内面を見つめるような趣味とかが流行ってるじゃない?
バブルの時だったら、お金持ちになりたいっていうやつが露骨に多かったし、DCブランド着て「見て見て。」とか、そういうわかりやすいやつ多かったよね。
今は、多様化っていう表現で眠っている野心を他のことに転嫁してるっていうか、逆に仕事以外の価値観をめっちゃ肯定してる風潮じゃん。
YouTubeのペット動画だってそうだよね。
バブルの頃なら、トラ飼いましたとか、500万円の犬買いましたとか、そういうのが人気出たと思うんだけど、今はほのぼのって感じじゃん。
それはそれでいいわけよ。
人生なんかどうやって生きても正解なわけだから。
だけど、できるだけ自分に正直に生きていった方が幸せだよね、きっと。
俺は最近、自分の内なる心を大事にするようにしてたんだけど、それも誰かの洗脳食らってたかな?と思うようになった。
俺は「幸せは人だ。」と思ってるわけだから、他人からの評価は思ってるより大事なのではないだろうか?
他人からの評価を気にするのが、自分の内なる声ってことはあるのではないだろうか。
だって人間は集団の中で生活しているわけであるから。
となれば、人の目を気にするためにブランドを買わなくては....
そして無限ループ。
とりあえず、イケジジになるために、勉強と運動を始めた。
何かを得るのには継続が必要だ。
継続しない努力は誰にでもできる無価値な努力だ。
俺は時間をかけて手に入れていこうと思う。